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故郷の雨 ――淡路市長―― 門 康彦

愛と正義の政治家、『砂楼の伝説』の著者でもある詩人 門康彦淡路市長の『故郷の雨』ネット版を、順次紹介してゆきます。

故郷の雨  ――淡路市長――   門 康彦

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        目次

故郷の雨 1 ――淡路島雑感

プロフィール


故郷の雨


少年


故郷淡路を想う


亡母 門ミユキの想い出


老人の世界


正義について


バーベナ淡路との出会い


バーベナ淡路、五才の誕生日を祝す


新生、淡路県民局


島人の子守唄


淡路島の将来を創造しよう


永遠に爽やかに 五周年を祝す


洲本ロータリークラブ例会 メッセージ


正論 洲本講演会メッセージ


日本会議兵庫県本部総会 メッセージ


市町合併について


第二十一回心の生涯学習セミナー メッセージ


南淡町立浮体式多目的公園竣工式 メッセージ


風土工学委員へのメッセージ


新生淡路県民局の行動理念について


淡路文化会館に望むこと


宅建あわじの更なる飛躍を


「まがたま」に託す言葉


故郷淡路に降る雨


兵庫・神戸のタウン情報誌センター


神話の故郷の自由な風と矜持


淡路島は何処へ


母校の移転・改築を終えて


津名高等学校八十一周年記念講演概要


三島博士顕彰会講演概要


平成十三年度淡路創造大学公開講座講演概要


「新・淡路県民局長に聞く」


視点見直し、志は高く


あとがき


故郷の雨2 ――淡路市雑感

 

 生家の改築

 旅立ち

 産経新聞  「私言独見」

 美しい淡路市(島)を目指して

 地域創りについて

 淡路市誕生

 67人の議会 第2回市議会 淡路市長施政方針


 一ヶ月経過 職員へのあいさつ

 淡路市誕生記念式典 式辞

 28人の議会 第3回淡路市議会開会あいさつ

 平成18年 仕事始め挨拶概要

 平成18年 年度当初挨拶概要

 初代淡路市長になって思う事

 平成19年 仕事始め挨拶概要

 広報淡路 就任挨拶

 市町村合併について

 一年経過挨拶

 敬老月間

 介護保険制度

 街創りの視点

 謹賀新年

新生淡路市の学校教育施設の未来

 組織の見直し

 淡路市2年目

 平成19年新年ご挨拶

 首長2006年の抱負を語る

 トップインタビュー

 兵庫ジャーナル 「この人」

 これからの淡路を考える

 津名ロータリークラブ週報

 津名高校同窓会が目指すべきもの

 津名高校に吹いた微風

 「縁(えにし)」~淡路市創世一周年記念「淡路島薪能」に寄せて

 祭りのあと(伊弉諾神宮薪能異聞)

 フラへの誘い ご挨拶

 誰にも見せない涙

 長沢アートパークパイロット事業 序文

 新たな旅立ちにあたって

 心に咲く花(第26集花蜜柑によせて)

 言葉の裏に心有り

 地域文化の継承

 国際ソロプチミスト淡路記念誌 祝辞

 淡路市国際交流協会会報誌「創刊号」

 挨拶 バーベナ淡路10才の誕生日を祝す

 平岡節郎先輩の喜寿を祝う挨拶

 五斗町まちづくり協議会へのメッセージ

 故郷の伝統芸能に未来を見る

 東京淡路会への挨拶

 「淡路市ふるさとづくり」運動 ご来場のお礼

 淡路市ホームページ挨拶

 東京淡路会 「謹賀新年」

 市老連淡路 挨拶

 名古屋淡友会「淡路市、旅立ちそして未知との遭遇」

 戦略調査への期待

 風土工学について

 明石海峡大橋の無料化とは?

 淡路市 地域経営 哲学(メモ)

 淡路市の今後 「他山の石」

後書き(門下市塾序文)

故郷の雨 3 ―― 淡路島市への道

そして プロローグ

平成19年12月28日御用納め挨拶要旨

平成20年1月4日 仕事始め挨拶概要

絵葉書――淡路市を考える会

年頭挨拶 2008年

美しい淡路を目指して

お前に任せた

それぞれのうた(花蜜柑 第二七集に寄せて)

出会いと別れ

津名の昔ばなし刊行に寄せて

広報淡路 20年新年ご挨拶

第二回 淡路島薪能に寄せて

爽やかな自負

北淡路に風は吹くか?

メッセージ

淡路島市への道

栄光と蹉跌 昭和43年4月~昭和46年3月勤務 事務室・門 康彦

神戸の壁の説明責任

淡路市の公共施設の見直しについて。

西川光二郎小伝。

「記憶の無い同級生」津名中学校第一回卒業生 門 康彦

淡路市の国際交流について ―長沢アートパークの歴史的意味―

遅れてしまった返事

淡路市のゾーニングについて

トマト 平成20年 夏

遅れてしまった返事2。

遅れてしまった返事3。

四年目の秋 淡路市長 門 康彦

真実(20.10.20市長訓示概要)

【トップインタビュー】◇2期目に向けた課題を整理=門康彦・兵庫県淡路市長

三国志展に想う

平成20年  年末の挨拶概要。

謹賀新年  淡路市長 門 康彦

平成21年新年の挨拶 淡路市長 門 康彦

傘寿の賀の祝いに寄せて  淡路市長 門 康彦

卒寿を祝す  淡路市長 門 康彦

天然党の伝説

感謝。

時代認識

美しい淡路市を目指して

事の本質

財政再建

自治体財政

ごあいさつ ――長沢アートパーク 2008レポート――

東京雑感

後輩達への新生淡路市2期目抱負。   淡路市長 門 康彦

淡路市の観光資源等について。

推薦文  特殊と一般 「歴史(普遍)への道」  淡路市長 門 康彦

人は何故、山に登るのか?

淡路市の地域創りについて

北淡文苑四十周年を祝す   淡路市長 門 康彦

島の不思議な物語。「門下市塾考。」

故郷の雨 4

故郷の雨4とは?

ふるさと創生事業の総括。

淡路市子ども議会の答弁要旨   H21.10.31

流れの外で

平成21年年末の挨拶。〈概要)

平成22年年始の挨拶。(概要)

津名学としての矜持。

上下水道事業について。

淡路市の施設整備等について。(バランス整備)

淡路一市について。

淡路市の組織について。

平成22年2010・3月31日挨拶概要。

平成22年2010・4月1日挨拶概要。

淡路市の文化行政(黎明期)について。

心は少年(ウオーターアンドライフ。マイワールド)淡路市長 門 康彦

津名高等学校90周年を祝す。

淡路青年会議所・島民討議会に期待する。 淡路市長 門 康彦

淡路市の近況報告   第15回生 門 康彦(淡路市長)

淡路市の将来像の前に

淡路少年少女発明クラブ創立20周年を祝して  淡路市長 門 康彦

夕張希望の杜に学ぶ。

誰が為に法律は有るのか?

島の不思議な物語外伝。

淡路環境未来島構想について(国生みの島からの日本再生)

津名高校創立90周年記念式典挨拶。   H22.10.10.13時30分~

「淡路市の閉塞感を打ち破るには?」

平成22年私的軌跡。

平成22年淡路市の公的軌跡。

平成22年年末の挨拶。(概要)

平成23年年始の挨拶。(概要)

責任の所在について。

地方自治。

淡路市の事業仕分け作業について。

淡路市を考える会2011年新春号について。

街創りの一手。

「共に生きましょう」淡路市長 門 康彦

市長からの便り(5月) 皐月晴れ 呑んで元気な 鯉のぼり。

淡路市東北関東大震災支援物資等輸送隊の出発式にさいしての挨拶概要。

市長からの便り(6月) 雨舞いて 緑が薫る 島の郷。

母校の卒業式に見た事。第15回生 門 康彦

関西看護医療大学への期待  淡路市長 門 康彦

市長からの便り(7月)短冊に 込める願いも 七回目。

淡路市の合併の意義。

市長からの便り(8月)  迎え火を 灯す手元に 蛍舞い

明石淡路フェリー㈱についての経過等。

淡路市要覧「はしがき」

世界平和観音像について。

市長からの便り(9月) 砂浜の  歌声消えて  島に秋

先輩と後輩の小考。

その時

市長からの便り(10月) 青空を 住処に浮かぶ 赤とんぼ。

自治基本条例について

故宮に想う。

市長からの便り(11月) 紅葉に 抱かれて眠る 狐狸の里。

行政の事業執行手法について。

市長からの便り(12月)七歳の 別れと出会いの 師走かな。

「歴史有る日伯協会に感謝して」 淡路市長 門 康彦

淡路市の教育についての私見。

淡路市市勢要覧。 淡路市長 門 康彦

平成23年の終わりにあたって。

広報淡路新年のごあいさつ(H24)「いつかきっと 帰りたくなる 街創り」を目指して。

淡路市ホームページの挨拶

市長からの便り(2月)  巡りくる 出会いの月は 愛おしい。

伝えるという事。

市長からの便り(3月)弥生尽 去りゆく人に 言葉無し。

海峡・明石に降る雨はーーー。

平成24年度施政方針に当たって。 H24.1.27.

市長からの便り(5月) 母の日に 涙の味の ほろ苦さ。

「いつかきっと帰りたくなる街づくり」について。  15回生 門 康彦

平成24年度事務等執行にあたって。 H24.4.2(部長級会議等資料)

市長からの便り(6月) 学び舎に 歌声響き 街甦る。

平成24年度の事業推進にあたって。 H24.5.1

市長からの便り(H24.7) 信長の 気持ちが分かる 天の川。

説明とは?

市長からの便り(H24.8)葉月の陽 目に染みてこそ ありがたい。

市長からの便り(H24.9)山里に はや紅葉の 勇み足。

「新生・淡路市と共に」 淡路市長 門 康彦

市長からの便り(H24.10月) 思い出は 微かに揺れた 祭りの灯。

定住自立圏構想とは。

市長からの便り(H24.11) 国生みの 島に生まれて 星となり。

平成の南海地震に備える。 淡路市長 門 康彦。  H24、11.

市長からの便り(H24.12)凛として 月が凍てたる 島の冬。

VALUATION。

H24.12.28御用納め。

広報淡路新年のごあいさつ(H25)  世界的観光立島・淡路市の夢を咲かそう。

H25・1・4職員への挨拶 (世界的観光立島・淡路市の夢を咲かそう)

市長からの便り(H25.2) 雪降らぬ 故郷の地に 槌音響く。

説明責任を果たす。

市長からの便り(H25.3)吹く風と 緑の香り 安らぎ楽し

淡路市「いつかきっと帰りたくなる街づくり」 淡路市長 門 康彦

岩屋地区市民への手紙

3期目の抱負 淡路市長 門 康彦

市長からの便り(H25.6月) 散る雨に 里の安寧祈願して そっと手を出す。

市長からの便り(H25.7)天と地を 海が隔てて 夏が来る。

市長からの便り(H25.8)蝉しぐれ 夏の日差しに 島甦る。

市長からの便り(H25.9)波に聞く 名残の夏の 恋時雨。

故郷の風「辛坊治郎さんの怒りに学ぶ」

故郷の風「想い」

故郷の風「市名について」

市長からの便り(H25.10)青空に 紙飛行機が 震えてる

故郷の風「勘違い」

洲本オリオン(映画館)の休館に想う。

故郷の風「拍手」

市長からの便り(H25.11)花ありて 河内の里に 歌声響く

淡路島エネルギー持続、次の一手。

市長からの便り(H25.12)波の華 寄せては去りて 浜に咲く

淡路市の国際交流について。 2013.10.9

淡路市合併10年の検証に向けて   淡路市長 門 康彦

「心は少年」 淡路市長(兵庫県) 門 康彦 <市政・マイプライベートタイム  平成26年1月号>

カフカの城(未定稿)

市長からの便り(H26.2)建国の 記念を記す 寒き月

市長からの便り(H26.3)淡路島 山に化粧の 山桜

尾崎小学校閉校式 挨拶概要 平成26年2月22日

平成26年3月 贈る言葉

市長からの便り(H26.5) 陽を浴びて 太陽光発電 フル回転

市長からの便り(H26.6)吉兆の 雨に託して 一人舞い

市長からの便り(H26.7)天と地に 祈る思いに 上下無し

平岡節郎先生著「淡路の生んだ偉大な俳人、政治家・永田青嵐」に寄せて。 淡路市長 門 康彦

市長からの便り(H26.8)太陽を 語りて若人 弾け飛ぶ

志筑川放水路(完成式典挨拶要旨) 2014H26.6.25

裏千家前家元 千玄室大宗匠(せんげんしつだいそうしょう)歓迎挨拶要旨

「さまざまなこと」裏千家・千玄室大宗匠・講演概要聴取 2014.6.29

市長からの便り(H26.9) 秋来いと 勇んで跳ねる 赤蜻蛉

錦織圭の敗戦に想う  2014.H26.9.9.AM6時(日本時間)

淡路市の事業仕分け(事業見直し)について。2014.H26.8.3

市長からの便り(H26.10) 沈みゆく 夕日に語る 逸れ鳥

市長からの便り(H26.11)空青み 吹き来る風に 涼を問う

晴天の霹靂(惜別の詩)

市長からの便り(H26.12)夜空澄み 星影冴える 島の冬

広報淡路新年のごあいさつ(H27) 新生淡路市10回目のお正月

北淡国際活断層シンポジューム2015レセプション・パーテイー歓迎挨拶(概要)

市長からの便り(H27.2)年数え はっと驚く 誕生日

市長からの便り(H27.3)白球に 夢を追いかけ 乙女飛ぶ

2015H27.4.1新規採用職員事前研修挨拶概要 2月28日(土)8:30~

淡路地域活性化事業協同組合設立挨拶概要 2015H27.3.2.15時~

人権文集「こころ」に寄せて 淡路市長 門 康彦  2014.H26・12

号泣議員の夜店

新教育長制度に思う。 2015H27.4.1~

市長からの便り(H27.6)山桃の 懐かし匂い 今何処

淡路島考(兵庫県地域創生条例) 2015.H27.6

島の不思議な物語(酒鬼薔薇・絶歌の波紋)

淡路市合併10年の検証(将来負担比率)

市長からの手紙(H27.8)島人の 願い叶えて 船走る

淡路市合併10年の検証(富島土地区画整理事業)

市長からの手紙(H27.9) 夕焼けに 染まって家路 急ぐ子ら

市長からの手紙(平成二七年十月)巡りくる 季節の風に 風車舞う

淡路市合併10年の検証(冊子)挨拶 淡路市長  門(かど) 康彦

広報淡路新年のごあいさつ(H28)

2016年平成28年1月4日(月)9時挨拶概要

平成28年賀詞交換会挨拶概要 2016.1.6.10時半~

阪神淡路大震災21年追悼事業挨拶概要 2016.H28.1.17 5時46分~

市長からの手紙(H28.2)父の齢 遥かに超えて 冬路行く

淡路市公共施設整備(庁舎関係)について 2016.H28.2.20 門康彦

三島由紀夫への試論 1970.S45年11月 門 康彦記

市長からの手紙(平成二七年十一月)五弁散り 涙の中に 花一輪

市長からの手紙(平成二十七年十二月)砂塵舞う 島の浜辺に 心静か

市長からの手紙(H28.3)別れの季 波間に霞む 島の春

市長からの手紙(H28.5)はれという 二文字が似合う 皐月空

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  1. 2007/10/23(火) 20:50:27
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プロフィール

門 康彦   淡路市長

昭和21年2月24日生
本籍・淡路市志筑 父親出生地・淡路市遠田
昭和39年3月 兵庫県立津名高等学校卒業
昭和43年3月 関西大学文学部哲学科卒業
昭和43年から 三原高校 淡路教育事務所 教育委員会 財政課勤務
昭和59年4月 農林水産部総務課経理係長
昭和62年4月 総務部財政課課長補佐
平成 元年4月 総務部財政課副課長
平成 4年10月 総務部財政課参事
平成 8年4月 土木部次長
平成11年4月 企業庁管理部長
平成12年4月 県企業庁管理局長
平成13年4月 淡路県民局長
平成15年4月 兵庫県代表監査委員
平成17年5月 淡路市長

【趣味】 読書 空手(4段)ゴルフ
【信条】 「心は少年」
【好きな人物】 土方歳三 ジェームス・ディーン
【著書】 詩集『砂楼の伝説』
    エッセイ『故郷の雨1』
    エッセイ『故郷の風1』
    エッセイ『故郷の雨2』 その他


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文藝春秋12月号同級生交歓

門康彦 淡路市長
冨田佳宏 神戸大学大学院教授・学長補佐
近野正義 神戸国際会館監査役
高田貴代志 兵庫県立津名高等学校教諭
  1. 2007/10/23(火) 21:04:14
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故郷の雨

混沌があった
宇宙の広がりを存在を
ひとりになって
とめどない疲れがあった

静寂の淵を
襲いくる目眩や
避けえぬ嘔吐の衝動をになって
沈黙がゆっくりと
どこまでも沈んでいった

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あれは遠い日
果てしなきデカダンの雨
降りし日
ひたひたと倦怠の足音
響きし日

沈潜の彼方
不明瞭な空間に
それらひとつひとつを見失い
怒りが彼方から
音もなく近づいてくる
今日この日
悲しみが通りすぎ
さみしさがゆく

ただ一度
本当のことを言うために
疲れと倦怠のなか
暗闇の沈潜に思いをはせ

過ぎし日しのぶ
今日
恥辱の里に
しとしとと
幻の雨が降る

        ふかいあさ 創刊号
  1. 2007/10/23(火) 21:07:00
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少年

砂塵の彼方
めくるめく深淵が
そうだというのか
海原の向こう
とめどない宇宙が
そうだというのか

廃屋の傍に立ち
降りしきる雨を
すかして眺めれば
笹百合の咲く谷間
雨の中
右手に食べかけの果実
左手を風にひらひら翻えさせて
少女が見えた

kadosan te
俺のものだったか
お前のものだったか
あるいは少女のものだったか
誰が知ろう

怒りが怒りをはらんで
昨日を生んだ
あれは果てしない
少年達の乱舞だったか

疎水の流れに秋深く
漂よう落葉が
そうだというのか
乾いた歩道に流星ひとつ
舞う残り火が
そうだというのか

今また
さわやかな一条の沈黙が
暮れる藍色の景色に
語りかけ
引かれゆく船人さながら
様々な相克の影に
夢を見る

枯れた大平原や
白い海
赤い山々
微かなかすかな
死者の子守唄が流れる異国の地
それが
そうだというのか

ひとりひとりの
虚妄の乱舞が
あれほどまでに唄いあげた
あれは ひととき
少年達の乱舞だったか
  1. 2007/10/23(火) 21:19:25
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故郷淡路を想う

 行間の密度と言う言葉がある。書かれている言葉よりもその言葉の裏の意味、また言葉と言葉の間、何も書かれていない空間にある凝縮された意味とも解釈されている。

 時は三十数年前、所は京都、銀閣寺から哲学の小径を経て南禅寺、西下した鴨川の三条河原で学生とやくざの乱闘事件が有った。祭りの宵で双方三十数名が入り乱れての派手な喧嘩で機動隊まで出動したが、当初、劣勢であった学生が勢いを取り戻してからの反撃は見事なものであったが、その要因は作戦にあった。三条大橋から駆けつけるやくざに対して、一旦、御池大橋まで退却し態勢を立て直して迎撃したのであったが、一人の先輩だけ下がらずに向かって行った者が居た。当然、怪我は大きく誤解の遺恨が残った。病院で彼は何も語らなかったが、仲間が逃げたという思いをずっと持ち続けていた。一方、組織だって行動しやくざを蹴散らした仲間達は、彼の行動に批判的であった。

 何年か後の再会時に、ある意味での誤解は解けたのだが、その時以来、私は「川の流れは両岸から見なければならない」という事に留意している。派手なパフォーマンスで突っこんで行った方か、冷静な判断で下がった方が、答えの正解は無い。

 それぞれの価値観で、見る方角で、視界が全く違う時が有る。川の流れは、まさに黙して語らぬ行間の密度そのものにも見える。
bridge b                              さて、淡路島は鳴門と明石海峡の架橋そして本土導水により、物理的に島でなくなり、過疎、少子、高齢化の加速する地域です。過疎、少子、高齢化を敵視する視点もあるがそれを逆手にとって未来を創造する方法も有り、量を質に変え高める事により展開を開く事が可能です。冷徹な分析と冷静な作戦、そして高い志が必要です。

 故郷淡路の喫緊の課題、市町合併は、シジフォスの神話に似ている。誤解が誤解を生み混沌模糊としている。私の合併についての意見に「局長の意見は悲観論」と言う人がいる。相手を懐で受け止める余裕が感じられない。人間が儀礼として動物と違う特質である挨拶が出来ない人がいる。さらに自分と意見の違う人には、意識的な無視をする。寂しい文化である。今こそ多様なる視点と価値観、そして断固たる決意をする時であり、淡路の近い未来は今の行動にかかっている。高い志と、思いやりの行動を持たねばならない。
  1. 2007/10/23(火) 21:23:41
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亡母   門ミユキの想い出

 昭和三十年代、志筑に三島座という映画館があった。母は映画好きで娯楽が少なかった当時、私も連れられてよく行ったものだが、ある時、幼少の私には、無頼漢かヤクザにしか見えなかった男達が喧嘩を始めた。すると母がその喧嘩に割って入り、見事に収めたのを鮮明に覚えている。

 何年か経ち、その事を姉に尋ねた事がある。「お母さんは、保健婦や共励会の世話で沢山の人を知っているから」という返事であったが、共励会が母子家庭の会である事を知ったのは随分経ってからであった。

 当時、平家の落人の里、秘境といわれた徳島県の祖谷有瀬村から母は、大阪に働きに出た。今から、七十数年前の事である。徒歩、汽車、船、バス、現在の交通事情を考えれば信じられない時間をかけての旅であった。

 今は地続きになった淡路島の実家に、神戸の家から一時間もかからずに帰る事が出来る。移動時間の短縮と価値観の変化。その多様性を思うにつれ、母が当時としては随分、自立した女性であった事を最近、再認識している。

 父の死の意味は、既に自我が芽生えていた姉のものと、生まれて一年の私のものとではまったく違っていたと思う。

 私は母子家庭を意識した事は全くなかった。それは今から思えば、故郷の人情、時代、親戚、友人達そして何よりも母の愛情によって守られていたものである事を不惑の年を遙かに越えた今、痛切に思う。
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 昭和三十九年の春、大学進学のため出かける私に小雨降る志筑のバス停留所で、傘をさす事も忘れ、
「何になってもいいが、ヤクザにだけはなるな」と真剣な眼差しで言った母の澄んだ眼と小さな体が今も目に焼きついている。

 母の眼の色が深く澄んだのを特別に意識したのは、小遣い銭を盗み、それを私が認めない事を叱り「一緒に死のう」と日本刀で追いかけられた時と、私の妻が淡路から遠い唐津から来る事に難色を示した親戚の人に毅然として妻を庇った時であった。

 矜持と助け合い、そして正義、母が共励会に抱いていたものはまさにそれらであったと今でも思っている

 小学校から高校まで、ずっと優等生で大学も自力で奨学生になり、国立大学に進学した姉とは違い、大きな夢だけを抱く少年が私学に進学するのを助けてくれたのは、母が配慮してくれていた母子家庭の奨学金であったがこれも知ったのは卒業後の事であった。

 大学在学中の私の素行を心配して、ちゃんちゃんこに小さな姪を背負い、津名高校の職員室を訪れ、相談に来た時の事を、藤本晃先生から
「あの時のお母さんには凄い存在感があった」
 と聞かされた事がある。

 神戸の街で助産婦をして一人頑張っていた女性、明石の街で「おふくろ」という食べ物屋で働いていた女性達、楽よりも子供と一緒に苦労する道を選んだ女性、それらの人達の存在感も同質のものであったと思う。

 当時の共励会には、そうした気概というか資質のムードがあった。

 母が死んだ時、私は県庁の財政課に居たのだが、私が門ミユキの息子と知って全く面識の無かった職員の方が沢山、挨拶に来られたのには驚いた。

「貴方のお母さんは本当に世話好きな人よ」
 とよく言われたものだが、折に触れてその意味を実感したのは母の死後の方が多かった。

 共励会の本質もお互いが世話をしあうという事であったと思う。

 女性が強くなったと言われる今日においても、それは変わらないはずである。

 父親どころか母親も親戚も定かではない子供たちを招いての昼食会で、挨拶の時に見せた母の涙がなんであったのか。

 時代は変わっても人は変わらない。表面上は違って見えても、本質を知る人間には真実は一つである。

 共に苦しみ、助け励まし合う自然は心。それらが自然体としてあった時代。母が生きたのはそうした時代の共励会であった。

 夢の架け橋がかかり、高速道路が島の中央を縦貫し、関西国際空港の国際便が上空を飛び交う今、久しぶりに母のアルバムを開いて見た。元気に楽しそうに笑顔が映える婦人達の顔があった。その回りに古着ではあるが洗濯の行き届いた白いシャツを着て、これも楽しそうに笑顔を見せている子供達の姿が在った。

 決して裕福では無かったが、楽しかった共励会。それが母の時代であった。

          ――淡路地区婦人共励協議会創立50周年記念誌――
  1. 2007/10/23(火) 21:41:45
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老人の世界

 二〇一〇年平成二十二年、私は六十四歳になる。

 二〇〇六年平成十八年の三月三十一日、今の制度で行けば兵庫県を退職する。

 その、二〇一〇年をピークにして人口は減少に向かうと予測されている。

 そして二〇二五年頃には、生産年齢人口(十五~六四才)の半分近くに六十五才以上の人口がなるとも予測されている。その時私は、七十九才。
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 日本の一般社会生活を今の制度の延長で維持していくためには、少なくとも六十五才以上の老人達の内の二十五%、四分の一程度の人達が何らかの形で自活しなければならない。

 人の世話になる恥を受け入れ惨めに生き続けるか、毅然として死を迎えるまで生きるか、これは美学の問題である。

 人はいずれ老化する。その時、どう老化するか。例えば、顔に出来る皺。それは、笑顔の皺でなければならない。そして、何よりもその姿勢、爽やかでなければならない。

 心身とも健全でなければ、それは達成出来ない。そのためには、今の積み重ねが重要な事となる。

 かつて、淡路島出身の代議士原健三郎は失言問題で労働大臣を棒に振った事がある。

「怠けていると最後は老人ホームに行かなければならない」言葉の前後を通して理解を要する言葉なのだが、その言葉だけを利用され、老人を侮辱していると非難されたのだが、一面の真理を突いている。

 若い時に好き勝手をして生きてきて、面倒を見てもらうのが当然といった態度。生活保護を受けずに頑張る態度。どちらも多寡が人生における人の生き方ではあるが、意味が全く違う。頑張った人にはそれなりの評価が必要であり、てきとうな人には、てきとうな評価が似合いである。

 そうならない為に、日頃からの研鑽が必要なのである。

 老人にも生きざまがあり、何よりも美学が必要である。
  1. 2007/10/23(火) 21:47:26
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正義について   ――阪神淡路大震災始末記異聞――

 あまりにも偽の正義が巷に氾濫している。

 例えば、阪神淡路大震災の悲劇の中で、脚光を浴びた「仮設住宅」の問題。勿論、それぞれにとって大変な状況の中で、必要な事であったし、施策としても避けて通れない命題でもあった。そのこと自体を問題にしているのでは無い。

 その期間と入居者の心に問題があった。

 仮設はあくまで仮設であって、速やかに入居者は自分の責任において、自分の住居を確保しなければならないし、また、そのように努力しなければならない。普通の人達はそのようにしそして、努力もした。
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 しかし中には、努力もしなければ意識の中において、「世話をしてもらうのが当然」という人達がいた。そしてそれらの言動を諭さなければならないはずのマスコミが表面的な記事により擁護し、あるいはおだて、全てそんな人達が困るのは回りの所為だと煽り続けた。その結果、誰かが何とかしてくれなければ何処へも行けない。してくれないのは、行政の責任、といった自己責任放棄の無責任な態度がまかり通る始末になってしまった。

 挙げ句の果てが、退却時、誰一人として「有難う」と言う言葉が発せられなかったという、常識では考えられないような幕引きが演出されることになってしまった。

 或いは、報道されなかった。

 そんな事は無い、と言う人がそう言うと必ず出てくるが、新聞、テレビ、いずれを見聞きしても、退却時、自分達の不幸が長引いたのは誰かの責任であるという文句の表明はあっても、人間としての最低限のモラル、「有難う」という一秒もかからぬ言葉が聞かれた事は皆無であった。

 因みに、仮設住宅にかかった費用は、不特定多数の人々から集まった税金である。

 正義とは、少なくとも常識の枠内にあってしかも、川の流れの両岸から見た視点を持った物でなければならない。
  1. 2007/10/23(火) 21:49:52
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バーベナあわじとの出会い

 二十七年ぶりの帰郷。他町へ遠征する時に守ってくれた少年達の姿は無い。青年達が乱舞していた憧れの街、洲本に、単身赴任したが昔日の面影は無く、故郷淡路島は、架橋と本土導水で物理的に島でなくなり、過疎、少子、高齢化の地域に変貌し、私も変わった。

 早朝三時、唯一の繁華街ローソン前に屯する子供達の前を通る。背広にネクタイ、片手に書類鞄、時間帯には理解不能の姿に黙り込む子供達を尻目に、内心は「因縁を付けられたら逃げるか闘うか」新聞の見出しを考えながら通過して淡路県民局に出勤した。

 薄明の中、静寂に包まれた殺風景な事務室に見事な胡蝶蘭が咲いていた。それが「バーベナあわじ」との出会いであった。

 「人生は一生の間で何人の人と出会ったかで変わる」と言われる。再会も又然り。上田会長のご主人は故板野副知事の知己であり、副会長の小久保さんは北淡町長の奥様、大谷さんは私の大学の友人の奥様、そして会計の田村さんは嘗ての同僚等等。
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 田舎を嘗めてはいけない。白々と明けてくる朝の光の中で、私には不釣り合いな派手な華をぼんやりと眺め乍ら誓った。因みに私には笹竜胆が似合うと言われた。目立たぬように燥がぬように、似合わぬ事は無理をせず、自然体の行政執行に努める事。

 ともすれば沈みがちになる島の環境にあって「環境文化の向上に寄与する」事を目的にするバーベナあわじの活動は、淡路全域を網羅し、その地道で着実な活動と華やかな人脈を基軸に更なる飛翔の予感を感じさせる。<つづく>

 淡路地域が新しい世紀の節目にあって、将来に対する決断を実行する今、そうした出会いは歴史の不可思議さの想いと共に新鮮であった。

 一期一会、それは理屈で証明出来ない。現代天文学によると、私達の太陽系が誕生して四十六億年、まだまだ宇宙は膨張し続けていると言われる。淡路島という地域を例えどんな形であれ共有し、そして同じ時代に生きるという事の意味を私達は大事にしなければならない。宇宙の時間帯で言うならば私達の一生なんて瞬きにも過ぎない。昨日と明日の狭間で生かされている実感を美化に託すのも限られた人生の選択である。

 新生淡路県民局は、この四月に誕生しました。一日早朝、明石海峡大橋を渡り乍ら眺めた華花と緑化の何処かに、既にバーベナあわじの努力の影が息づいていたのでしょう。

 葉月四日、美女桜は弾けました。「ヤットサー、ヤットサー」の掛け声、軽快な「よしこの」に乗って、夜目、遠目、笠の内に助けられなくても夏に蘇った青春の息吹が、祭りの中で際立っていました。審査員が評価した優秀賞はその証なのでしょう。

 与えられた紙面は尽きました。バーベナあわじの益々の発展を祈念し、淡路県民局中庭での楽しい語らいに感謝いたします。ますます強くそして何時までも美しくあらん事を。
                                    淡路県民局長 門康彦 拝
                                    会報3号 平成13年10月
  1. 2007/10/23(火) 21:55:28
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バーベナ淡路、五才の誕生日を祝す

 地域社会を成熟させて行くのに、最も重要な事は、継続という行為だと言われている。行動力とバィタリティーの有る「バーベナ淡路」に、地域社会の旗手としてまだまだこれからも多くを期待していますが、取りあえずの節目の記念日に、心からお祝いを申し上げます。

現地解決型の総合事務所として出発しました、「淡路県民局」は、まだ二年目半ば、これからも皆様のご指導ご教授をお願いするものですが、一年目は普及啓発、二年目は情報の共有と相互連携、そして三年目は、共感、これがキーワードだと思っています。

 どのような社会、組織にあっても、共感無くして真の成功は有り得ません。

 今、淡路地域は、明石海峡大橋の架橋によって、物理的な条件では島の状態でなくなりましたが、依然として、島的要素は色濃く残っています。そうした中で、過疎、少子、高齢化の加速する現実を直視しながら、有る意味ではそれらを逆手に取って「環境立島、公園島淡路」として創造していく行動は、「バーベナ淡路」の諸活動と軌を一つにするものではないでしょうか。
bavena.jpg
 「淡路島の再生」とか「復活」と言う言葉が使われる事が有りますが、果たしてその言葉は、正鵠を得ているのでしょうか。もともと、再生、復活するものなど有ったのでしょうか。また、有ったとしたら、今も昔も何が変わっていると言うのでしょうか。

 理論先行の言葉の遊びの時代は終焉したと思います。情報過多の時代に在って、着実な実行力、それが重要ではないでしょうか。

 正論としての「淡路一市」が有りながら、成就し得ない状況に有る今、私達は、何故なのかと自問する要が有るのではないでしょうか。中原中也の詩の一節「あまりに早く下手な庭師に手を入れられた悲しさよ」を引くまでもなく、「共感」がこれからの淡路地域に最重要のキーワードではないでしょうか。

 淡路県民局は、行政の視点から淡路地域の共感の醸成に努めます、バーベナ淡路の方々は、地域のリーダーとして、住民の視点から、共感を今以上に広められ、その繋がりをさらに発展される事を願って止みません。

 最後に、皆様方のご健勝にてのご発展をご祈念し、今日から、十周年に向けての活動を「共感」を一つのキーワードとして継続される事も期待しつつ、お祝いの言葉とさせていただきます。バーベナに光有れ。
                                             平成14年11月
  1. 2007/10/23(火) 21:57:58
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新生、淡路県民局

 未明、静まり返る田舎街のアスファルト道路に、規則正しい駆け足の音が近付き、追い抜いて行く。遠ざかる少年の背に、自身を鍛える自負と矜持が見られた。時代は変わっても変わらない人がいる。

 一方、「権利だけを主張し、義務を忘れる」「思いやり無く、自分の事だけ考える」「安全な時には威張り、有事の時には逃げる」思い違い勘違いの思考の氾濫で、正論が肩身の狭い思いをする世界もある。

 そうした中、21世紀は、「宇宙への世紀」「環境の世紀」等と言われていますが、淡路島にとっての21世紀はどう在るべきなのか。新しい世紀の始まりの年に、現地解決型の総合事務所として淡路県民局が出発しました。

 過渡期の時代の中に在って、物理的に島で無くなった淡路地域が、かつての盛況を取り戻しにかかるのか、新たな世界の創出を目指すのか、淡路からの発信という命題を背負って新生県民局と淡路の人々との協働が、今、問われています。
Put a future
 県民局は、地域ニーズに迅速に対応し、より効率的な体制のもと、質の高いサービスの提供を目す。住民の皆さんは、将来の地域の在るべき姿について自主的、主体的に取り組んでもらわなければなりません。

 量よりも質へ、多様化する価値観の中にあってこそ、中原中也の「つみびとの歌」の一節が思い出されます。「下手な植木師らにあまり早く手を入れられた悲しさよ」。環境立島・公園島淡路へ向かって参画と協働の理念を遂行する為にも、「川の流れは両岸から見なければ分からない」視点の柔軟さと、地道で地味な作業の積み重ね、そして断固たる決意に基づいた継続が必要とされます。

 何よりも大事なことは、本物を追及する高い志ではないでしょうか。表面上だけを取り繕い、無責任な対応に終始しても、何処吹く風といった態度が横行していますが、日本古来の文化に培われた美学を今こそ見直し、再認識する時ではないでしょうか。

 それらの実現のためには、見えるものとして島の整備があり、それに心を入れる為に、大きな意味での教育が有ります。厳しさの無い家庭には本当の思いやりは生まれません。責任放棄の何でも平等の鍛錬からは、ヒーローは生まれません。

 さらに、淡路の将来を語るには、市町合併の課題を避けては通れません。県民局の立場は、「将来の地域の有るべき姿について、地元において幅広い論議の中で自主的、主体的な検討が行われるよう、必要な情報や適切な助言等を行い、自主的な合併についての機運が高まり、具体的な段階に入れば、広域的な観点から必要な支援を積極的に行う」事です。

 環境立島は、住民の厳しい選択から、ある意味での奉仕から実現可能となります。明日に向かって、共に一歩を踏み出しましょう。淡路島独立の気概を心に秘めて。

                                        淡路県民局長 門康彦 拝
                                      淡陽ニュース 平成13年6月
  1. 2007/10/23(火) 22:13:46
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島人の子守唄

 淡路縦貫道(神戸淡路鳴門自動車道)淡路ICから県道一五七号を十数分南下すると東浦町楠本の丘陵地十五ヘクタールに「淡路花さじき」の景勝が広がる。明石海峡、大阪湾を背景に花の大パノラマが展開し、訪れた人々の評価は高い。投資効果、コストと評価の比較から見れば大成功の公共事業である。勿論、関係者の努力の成果に拠る所も大きい。

 その周辺にかつて「関西国際空港」を建設する計画があった。当時流行の反対運動に遭い、計画は消え、今が在る。「もしも」と言う言葉が許されるなら、空港が建設されていれば、明石架橋の実現はもっと早かったであろうし、鉄軌道が島を走り、雇用、産業は目を見張るものになっていたであろうし、USJは島の埋め立て地にあったかもしれない。勿論、それなりの痛み、環境問題が課題となっていただろう。そのかわりに私達島民は、過疎と少子化と高齢化を手に入れている。そして反対運動の主体者は島外の都会に帰り、暇な時に来島し、塵芥を残し、満足して、責任を取らない通過者として去っていく。

 それらの評価は難しい。しかし、環境立島「公園島淡路」と屋久杉保存を同次元で眺めてはいけない。緻密な検討、地味な努力が必要である。あるアメリカインディアンの種族は、自然の復元を自然に任せるという。そして中国の或る地域では緑化の方法として従来種にこだわらず、あう物はすべて人工で再生させようとしている。
suzukisann.jpg
 神話の島の国道二十八号沿い、見事に育った椰子の木々にも批判を寄せる人はいる。

 各々が各々の価値観と観点で判断する。正解が一つではない事は歴史が証明している。

 新しい世紀の節目にあって、最大の課題が二つ。一つは市町合併、二つはこれからの淡路島創造である。合併問題は長い歴史の中でそれなりのまとまりを見せようとしているが、これからの淡路島の創造は言葉以上にてごわい。

 優先すべきは住民の福祉であるが、日本国における淡路島の位置からの存在感もあり、最終的には世界的規模の地球温暖化対策の観点もある。また、注意すべき事は手段の為に利用されてはいけない事である。さらに、あまりに直接的利害ばかりを追及して、理念を忘れてはならない。バランスの取れた創造が要求されるゆえんである。

 かつて『島人』が淡路島出身である事を誇りに出来たように、そして独特の人間関係が島人の美学を高めていたような視点からの淡路島の創造に、今、行動を起こす歴史の節目に、私達は遭遇している。旅人が驚愕するような淡路島の公園化を「NPO淡路緑化協会」の矜持に期待し、益々の発展を祈念いたします。

                                    淡路県民局長  門康彦 拝
                           花とみどり 淡路緑化協会 平成13年10月
  1. 2007/10/23(火) 22:17:30
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淡路島の将来を創造しよう

IMG_1592.jpg                                  かつて淡路島に国際空港建設の計画があった。それを放棄した代わりに、今の静けさと過疎、少子、高齢化を手に入れた。計画が実行されていれば、架橋も早く鉄道も建設され、さらには、淡路島は国際の島として発展していた可能性は高い。空港に反対した人々が今、過疎化を問題視している。何をかいわんやであるが、正解は無く、現実だけがある。

 視点を狭少に固定してはいけない。「川の流れを両岸から見る」視点と、柔軟な発想を求めなければならない。「公園島淡路」だけで良いのか。言葉のイメージで本質を見誤ってはいけない。目的を明確にして、そのアイデンティティーから自分達の為すべき事を決定する。その感性がなければ、日本の美学の再生はあり得ない。行動を伴わない口先だけの論議が氾濫している現代日本は、何かが狂いはじめている。まず自分自身の存在から問い直す事が大事である。そうした謙虚さから人づくりの一歩が始まる。

 今、淡路島は、その将来の方向を決める時期に遭遇しています。正解は無いが、決して未知との遭遇ではありません。五〇〇人委員会の断固たる行動を期待しています。
                             10号 平成13年11月
             ――「こころ豊かな人づくり500人委員淡路連絡会」に寄せて――
  1. 2007/10/23(火) 22:21:21
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永遠に爽やかに  五周年を祝す

 風は西から吹く。三原平野を駆け抜けた行政合併の風は、洲本、津名を巻き込んで吹き抜け、今、神話の故郷、淡路島は、歴史の転換期に遭遇している。地縁的なコミュニティーが崩壊したと言われている現代において、地域のコーディネートをどうした形でしていかなければならないか、不可思議な歴史の節目に在って、後世にどうした形で、そして夢を託せるのか、責任は重い。風光明媚、気候温暖なこの島にあっても、全てが旨く収まる事はあり得ない。各々の特質が特化され、それが調和しあってバランスの取れた地域が形成される。淡路島地域に於ても例外では無い。各々が地域のエゴを排除し、全体としての対話と調和を図るよう努めなければならない。今が、まさに歴史が動く刻である。
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 女性ならではのたおやかな感性を発揮して、おみなの会でも議論を高めていただきたい。その事がいずれ淡路島の活性化に何らかの形で繋がって行くのは間違いない。

 静かな洲本の市街を深夜一人歩いていると、足音が着いて来る。振り返って見ても誰も居ない。ふと見上げた夜空の星が目に浸みる。優れた詩は、その空白の行間の密度から生まれると言われている。この静かな風土がこれからの淡路地域の行間の密度で在るのかも知れない。星の王子様は、夜空のロマンスを背景にして映える。淡路のおみなは、何に映えるのか。花か緑か公園島か、はたまた鳥か。サンティグ・ジュペリはパイロットでもあったのでその文章に深い意味を与えた。古来、淡路島を訪れた独身の男性は、島のおみなに惹かれて生涯を共にするのが多いと言われる。おみなを星の王女様する男性の誕生が求められるが、王女様達も研鑽に努めなければならない。

 景観十年、風景百年、風土千年と言われるように、事の是非は別にして、物事は定着するのに時間を要する。五周年を迎えられる「淡路おみなの会」がこれからも、益々、発展活躍を継続され、美しさもさる事ながら何よりもその爽やかさを持続されん事を、ご祈念申し上げ、お祝いのご挨拶とさせていただきます。
                                    淡路県民局長 門康彦 拝
                                   淡路おみな 平成14年3月
  1. 2007/10/24(水) 09:35:45
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洲本ロータリークラブ例会  メッセージ


Ⅰ新生淡路県民局について
 1 県民局の総合事務所化
  (1)これまでの県民局の役割
  (2)噺しい県民局の役割
  (3)総合的な視点から地域政簾を企画立案し事業を報告する。
  (4)地域の課題は現地で解決する。
 2 再編による効果
  (1)質の高い行政サービスの提供
  (2)地域ニーズに即した迅速な対応
     ・地域の課題を現地で総合的かつ的確に解決できる体制整備
  (3)より効果的な執行体制の整備
     ・地域の特性や課題に応じたきめ細かな対応
Ⅱ市町合併について
  (1)全県的な傾向
  (2)淡路島の現況等
  (3)県の立場
     ・将来の地域の有るべき姿について、地元において幅広い議論の中で自主的、主体的な検討が行われるよう、必要な情報や適切な助言等を行い、自主的な合併についての機運が高まり具体的な段階に入れば、広域団体として必要な支援を積極的に行う。
bridge7.jpg                                         平成13年5月
  1. 2007/10/24(水) 10:00:01
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正論   洲本講演会メッセージ

 「第二三一回全国縦断正論」洲本講演会が、第十六回正論大賞を受賞された小堀先生をお迎えし、かくも盛大に開催されました事をお慶び申し上げます。
 すでに皆様ご案内の通り、淡路県民局は、現地解決型の総合事務所として新生、出発したわけですが、これは、行財政改革とか地方分権とかの時代の流れを受けたものでもあるのですが、一方で、言われております、参画と協働の実行部隊として私は、県民局がその一翼を担うものと理解しています。

 「権利だけを主張し義務をないがしろにする」「思いやり無く自分の事だけを主張する」「平時の時は威張りちらし、有事の時には逃げ回って責任を取らない」といった風潮が万延し、本来の正論が正論として通用しにくい時代。
shourou.jpg
 そして、「全体を見ずに、一部だけを誇大に追求する姿勢」「また、目的のためには手段を選ばない行為」それらを何ら感じずに正当と思う思い違いの感性、それらはまさに正義が正義として評価されない時代をも象徴しています。

 日本古来の美学が正当な評価を受ける当然の世界を創出するために、ここ淡路島から、そして洲本から地域の声として発信するため、新しい世紀の始まりの年に、小堀先生の的確な時代認識に基づくご講演をいただき、県民局、そして淡路地域の住民が、参画と協働の理念にそって、さらなる正論を創出し、議論を深めてまいりたいと思います。

 言葉足らずの祝辞では有りますが、ますますの正論講演会のご発展と本日ご参加の皆様のご健勝を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます。
                                    平成13年6月 ニューアワジ
  1. 2007/10/24(水) 10:04:52
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日本会議兵庫県本部総会   メッセージ

 淡路県民局の門です。

三年目になりました関西サマーエコーキャンペーンスタイルで失礼します。

 出雲井先生のご講演に先立ちまして、この四月から現地解決型の総合事務所として新生出発しました淡路県民局の立場としまして、お礼とお祝いのご挨拶を一言申し上げます。

 鳴門と明石の海峡に架橋され本土導水が実現した事により、この淡路島は物理的に島でなくなったわけですが、便利になったとは言え、やはりいろいろな意味で島的ハンディーは背負っています。

 しかし、そのハンディーキャップが果たして、不利な事ばかりなのでしょうか。

 プラスとマイナスの評価は紙一重とよく言われます。
awaji03.jpg
 評価はまた、価値観は色々ありますが、関西国際空港の設置をこの淡路島が放棄して、繁栄と発展を放棄した代わりに、少子、高齢、過疎化の静かな環境を今享受しています。視点を量を質に転換しなければならないと言われている現在、市町合併を喫緊の課題としているこの淡路島、神話の島といわれて久しい当地に、出雲井先生の講話がまさに時宜を得たものと実感しています。

 日本古来の美学が、本当の意味での評価を得にくい現代において、この淡路地域がどういった形で将来を創造しなければならないのか、限られた時間の中で判断を迫られています。

 行政も量より質への視点へ転換を計っていますが、住民の参画は、トータルとして量が要求されています。人任せではなく、官主導から民自立の流れに沿い、それぞれが責任を持ち実行していく社会の形成こそ本当の意味での質への転換になるはずです。

 神話の故郷、この淡路島での出雲井先生のご講演に感謝し、本日ご参加の皆様のご健勝と、日本会議の益々のご発展を祈念しまして、ご挨拶とさせていただきます。
  1. 2007/10/24(水) 10:08:01
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市町合併について

1 基本的な考え方
 地方分権は、今の中央集権体制では今後の行政サービスがうまく行かない。限界に達しているというところから始まっている。すなわち、戦後の我が国の繁栄を支えてきた社会の枠組みそのものが構造的に大きく変化しようとする中で成熟社会への流れに沿って本格的に公民共働の時代を迎えている。

 市町合併は、そうした本格的な地方分権の時代を迎え、市町経営のあり方を検討する最大課題となっている。
karita.jpg
  (1)中、山間地域において顕著な、過疎、高齢、少子化、財政基盤の脆弱さ
     *二〇三〇年における人口動向。

  (2)住民の生活圏の広域化。

  (3)高度技術化、情報化スピード対応。

  (4)多様な住民ニーズに的確に対応する必要性。

 そうした事で、今のままの単一の行政区域のままでいいのかという課題の解決が必要。

 地方自治体の制度というのは、国の統治機構としての機関の側面を持つ一方、発生的に見ると、その地域地域の地理的、歴史的条件や住民意識のまとまりとしてのコミュニケーションとしての機能を持っている。

 言われているように、市町村は、基本的に地縁共同体であり、いわゆる、利益共同体、株式会社等は違う。そうした意味で住民の共同体としての意識から離れた市町村は成立しえないという観点から、市町村のあり方は、住民の基本的な判断によらねばならない。

 官主導の社会から成熟社会に移行する過程で民自立と言う考え方も強まっている。官主導で上からの仕組みにより統治機構を作っていくというような市町村がいいのか、住民意識により問題は自分たちで共同して解決していくといった地縁的な組織としての市町村がいいのか、選択する時期であり、今日本は中間にある。

 EUの憲章にある「補完の原則」まず市町といったコミュニティーがまず住民の仕事の世話をし、不足の部分を広域的な県がやりそれでも足りないものは国がやる。という考え方が今後の主流になる。
minato1.jpg
 2 市町村合併のあり方について

 時代は視点を量から質に転換することを要求している。行政もまた同じ傾向になっている。しかし住民の参画は、量的支配が重要である。少子化のマイナス面として、教育のサービス過剰がある。子供の数が少ないことが、家庭のみならず学校現場においても、過剰な対応が子供達の自由、自立心を疎外している。

 行政もまた、どの範囲が最適なのか、その基準は難しい。また、何を優先すべきなのか答えは複雑である。淡路地域をひとつのブランドとしてより以上の創造を目指すのは一つの選択肢であることに異論は無い。しかし、そうでなければという決定理由は不明確である。そうであるとしたら、段階的合併は方法論として有益であると言える。

 合併は改革のチャンス、しかし下手をすると単なる混乱に陥る。また合併後の明確なビジョンと行動指針が無ければ、コンサルの絵だけに終わる。
                                           平成13年8月
                     ――津名ロータリークラブ メッセージ――
  1. 2007/10/24(水) 10:17:52
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第二十一回心の生涯学習セミナー  メッセージ

 第二十一回(財)モラロジー研究所淡路地方心の生涯学習セミナーが、かくも盛大に開催されました事をお慶び申し上げます。

 すでに皆様ご案内の通り、淡路県民局は、現地解決型の総合事務所として新生、出発したわけですが、これは、行財政改革とか地方分権とかの時代の流れを受けたものでもあるのですが、一方で、言われております、参画と協働の実行部隊として私は、県民局がその一翼を担うものと理解しています。

 視点の変換。量より質。

 「権利だけを主張し義務をないがしろにする」「思いやり無く自分の事だけを主張する」「平時の時は威張りちらし、有事の時には逃げ回って責任を取らない」といった風潮が万延し、本来の正論が正論として通用しにくい時代。
0219-03.jpg
 そして、「全体を見ずに、一部だけを誇大に追求する姿勢」「また、目的のためには手段を選ばない行為」それらを何ら感じずに正当と思う思い違いの感性、それらはまさに正義が正義として評価されない時代をも象徴しています。

 日本古来の美学が正当な評価を受ける当然の世界を創出するために、ここ淡路島から、そして洲本から地域の声として発信するため、新しい世紀の始まりの年に、小堀先生の的確な時代認識に基づくご講演をいただき、県民局、そして淡路地域の住民が、参画と協働の理念にそって、さらなる正論を創出し、議論を深めてまいりたいと思います。

 言葉足らずの祝辞では有りますが、ますますの心の生涯学習セミナーのご発展と本日ご参加の皆様のご健勝を祈念いたしまして、ご挨拶とさせていただきます。
                                    平成13年10月 洲本市民会館
  1. 2007/10/24(水) 10:20:45
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南淡町立浮体式多目的公園竣工式  メッセージ

 南淡町立浮体式多目的公園の竣工式にあたり、お祝いの言葉を述べさせていただきます。

 昭和六十年の鳴門架橋、平成十年の明石架橋、そして本州からの導水により、この淡路島は、物理的に島でなくなりました。

 従来の観光入り込み数は、六百万から八百万を推移していたわけですが、鳴門架橋時に初めて千万人を超え、明石架橋時には、二千三百万人を数えたわけですが、それからは、他の例にならい、減少傾向で、これからの傾向は不透明ですし、宿泊客は減少傾向であり予断を許しません。

 また、ご案内の通り、過疎、少子化、高齢化の傾向は今後も続くと思われます。

 こうした現状の中、そのアイデァと実行力で、リーダーとしての資質を高く評価されている、森南淡町長さんの、英断でもって、実行されたこのプロジェクトは、甲子園球場のグラウンドの半分以上もあろうかと思われる、メガフロートの発想は、まさに時宜を得た事業であります。
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 島に島を造るという発想の転換は、視点を量を質に転換しなければならないといわれている時代の流れの中でも際立っています。

 淡路島地域をコーディネートする立場で新生しました淡路県民局におきましても、こうした動きに、直接、間接に支援し、また、参画と協働の理念にそってともども事業の推進に努めてまいりたいと思っています。

 最後に、本日ご参集の皆様のご健勝、南淡町の益々の発展、そしてなによりも、このメガフロートのプロジェクトの成功をご祈念いたしまして、お祝いのご挨拶とさせていただきます。

 おめでとうございました。
  1. 2007/10/24(水) 10:24:04
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風土工学委員へのメッセージ

 風土工学懇話会の委員をお引き受けいただき有難うございました。それぞれが忙しい毎日を過ごされておられる事を承知の上でのお願いでした。

 しかし、今までとは違った方法で、そして兵庫県では初めての試みというこれまでに無い私達、行政人としては、ある意味での冒険にチャレンジするわけですから、委員の選任に当たりましては、細心の注意を掛けました。
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 今後の淡路島の地域戦略、イメージ戦略のメンバーとしては、私は、ベストの体制が出来たと思っています。「言い過ぎの県民局長」と多くの場所で顰蹙を買っている私ですが今回だけは言い過ぎとは思っていません。

 皆様方もそれぞれの視点、価値観、そして美学を展開されて、懇話会が盛り上がるよう遠慮なく発言をしていただきたいと思っています。

 さて今、淡路はまさに「その時歴史が動いた」という刻に在ります。市町合併という将来の人々に多大の影響を与える大事業で有ります。

 敗戦後、十年程たち所謂、「昭和の大合併」という官主導の合併劇が有りました。その当時、島の先輩達は淡路島での空港建設を放棄しました。そして今、私達は騒音、公害、活性化等を失った代わりに、過疎、少子、高齢化の静寂を享受しています。

 それから、十年後、日本の島の中で唯一有りました鉄軌道「淡路鉄道」が廃線になり、また、十年後には、各種の学校建設が盛んな頃、私は島を離れました。

 そしてその十年後に鳴門海峡大橋の架橋、その丁度十年後に阪神淡路大震災が起きました。それからの淡路は明石海峡大橋の架橋により、飛躍的な変化を遂げ今が有ります。しかし、洲本市に残っていた二軒の映画館の内の一軒が廃館になり、過疎の動きは加速しています。

 過疎、少子、高齢化が何が悪いのかと言う意見も有りますが、今の私達が次世代に何を残す事が可能なのか、その命運を風土工学懇話会が握っています。

 取りあえずのお礼とご期待を書面にてさせていただきます。宜しくお願いします。
                                            平成14年7月
  1. 2007/10/24(水) 10:26:31
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新生淡路県民局の行動理念について

 「関西国際空港が淡路島に建設されていたら」と後ろ向きに眺める姿勢が、今の淡路には必要なのではないか。評価は難しい。しかし、繁栄発展を放棄した代わりとして、過疎少子、高齢化と静けさを手に入れいている。多様な価値判断、視点によって物事の判断をしなければ、人類の航路を間違える事になる。党利党略に捕らわれるといった狭少な行動理念では無く、志を高く、具体的に行動する事が今求められている。そういった観点から、行動の枠組を紹介します。
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 新生淡路県民局の一年はまさに瞬く間に過ぎました。

 明石海峡大橋の架橋、本土導水の実現等により、淡路島は物理的に島ではなくなり、神戸地域までのアクセスの所要時間は、ほぼ平均一時間以内になりました。

 一方、シンガポール、神戸市と同じ面積を擁しながら、過疎、少子、高齢化の流れは加速しています。あるシュミレーションによると平成四十二年、二〇三〇年には、島内人口は十三万人台になり、六十五才以上の人口比率は三十二・一%と予測されています。ほぼ三人に一人が高齢人口になるわけです。平成二年の十四才以下の年少人口比率十八%と高齢人口比率十八・九%を境にしてその較差が開いて行くばかりですから、自明の理であります。

 そうした状況の中で、平成十二年三月に淡路公園島憲章を制定し、住民の参画と協働のもと、淡路地域ビジョンの推進が計られています。「淡路の持てるもの、仕組みの読み替え、内発的発展と独自の尺度作り、人と環境との係わりについての新たな選択」を理念とし、目標を「人と自然の豊かな調和を目指す環境立島・公園島淡路」としています。それは、花一杯の美しい島を創るだけでは無く、当然の事では有りますが、地域住民が「受益に応じた負担」を自己決定する責務も伴います。

 そうする為に、量から質への視点の変換を必要としますし、何よりも、多様な価値観を柔軟な視点で見直す姿勢が大事です。

 県民局の現地解決型総合事務所化は、そうした時代背景に対処する為に必然的に設置されたものでも有ります。

 平成十三年度は、県民局が本格稼働する為の準備期間で有りました。器は変わっても中身は変わらない、の例えに有るように、組織が改変され縦割り行政の弊害である線と点の行政を面的な総合事務所にしても、働いている職員の意識が変わらなければ何も成りません。長く続けてきた仕事の方法を変える夢は、非常に努力を要します。

 その為に、内外に関わらず、会議を多く持ち、議論の機会を広げ、何よりもPRに努めました。語りかける事、一歩を踏み出す事が今年の理念でした。
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 平成十四年度は、環境立島・公園島の創造に向かって具体的に施策の展開を図ります。県の一般会計が、震災復興によるイレギュラーな年度を除いて初めて対前年より減額予算となる状況の中で、地域の特性を生かし、地域戦略の推進施策を展開します。

 ●全島広域連係の自転車歩行者道の整備推進
 ●淡路ため池保全隊の設置
 ●淡路菜の花エコプロジェクト事業実施
 ●緑条例、環境形成区域案の検討調査
 ●風土工学的手法によるイメージ戦略モデル調査
 ●淡路地域ツーリズム振興事業推進
 ●淡路地域津波災害対策事業推進
 ●住民の参画と協働事業(地域運営支援モデル、森作りの推進)
 ●個別事業(ワールドカップ支援、景観園芸学校園芸療法プログラム開設、県立津名  高校改築、県立佐野運動公園整備)の推進

 平成十五年度は、環境整備事業として、河川、港湾の浚渫事業、家畜糞尿の処理施設整備事業、環境立島にそぐわしい美化事業の展開、エコエネルギーの研究、淡路島リゾート整備の見直し等、を検討模索して行きたいと思っています。

 いずれにしても、環境立島・公園島淡路として、地域が自立し、後世に胸を張って伝えることが出来るよう、理念を高くそして行動を具体的に展開するよう心がける積もりです。皆様の同志としてのご協力ご支援をお願いいたします。
                                      IOGーNEWS   平成14年7月
  1. 2007/10/24(水) 10:32:07
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淡路文化会館に望むこと

 淡路文化会館が開館した昭和四十七年、グァム島から天皇の兵士が帰還し、戦争を知らない子供達が浅間山荘、テルアビブ空港で戦争ごっこを繰り広げた。以来、大鳴門橋、明石海峡大橋の架橋により島内外の移動時間の短縮は、その価値観と視点を微妙に変えた。そして、敗戦直後、二十三万人を数えた島の人口は、空港計画の挫折や鐘紡洲本工場の閉鎖により、過疎、少子、高齢化への加速を強めた。

 文化は、人の数だけ有ると言われる。さすれば、淡路文化会館は、十五万八千弱の価値観を有する事となる。静かな景観に恵まれたその佇まいは、自然の懐に抱かれた侘びと寂の優位性に守られている反面、やはり過疎、少子の現実にも直面する二面性を有している。その多様性を克服した時に、文化会館の新たな未来が開けるような気がする。それは、淡路島という風土の中に存在する宿命でもある。
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 幾多の人材を輩出しながら、淡路がその文化圏を確立出来ない原因の一つに温故知新の感性の欠如が有るように思える。嘗て「淡路に文化は不毛」と先輩達が自嘲を込めて表現したシャイな美学を誤解してはならない。今こそ、この三十周年を期に、文化だけでも淡路は一つという正論の感性を希求する先兵になる事を望みます。

 今、淡路は、大きな時代の変革期に遭遇しています。茶髪にサングラス、くわえタバコに携帯電話をかけながら片手運転でたんぼ道を疾走する若者達。一方、伝統の文化を守る若者達、そして、将来の淡路の為に市町合併を議論するリーダー達、それぞれが、その価値観で今を生きています。人は一人で生まれて来て一人で死んで行く。その間の生き様が大事で有ると言われる。詩で言うところの、行間の密度である。

 これだけの自然のストックと可能性を持った文化会館が核となり、新たな展開を発信する事が、今、真の意味で必要とされているのではないでしょうか。

 歴史を動かすのには、目に見えぬエネルギーを必要とします。また、地道な人知れぬ努力の積み重ね、そして継続の力も大事です。バラバラの人材を集積し、明日に向かって一歩踏み出す勇気を記念の時に期待します。

 三十周年、おめでとうございました。
                                           平成14年11月
  1. 2007/10/24(水) 10:34:42
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宅建あわじの更なる飛躍を

 新たな年の始まりに当り、改めましてお祝いのご挨拶を申し上げます。貴協会淡路支部が中村支部長のリーダーシップの元に益々発展されん事を何よりもご祈念申し上げます。

 さて、この小文が皆様のお目に留まる頃、淡路島は市町合併の形を明確にしているはずです。また、そうでなければなりません。

 地勢的に見て、淡路は島でありながら島で無い特質も兼ね備えていました。それは単に地続きでは無いという事で島と称せられ住民がそれに甘んじていた事と、阪神圏域二千五百万人と言われる人口集積の付加価値を持っていた事です。リゾート法のある意味での成功例と言われる三例の中、北海道、沖縄に続いて入っている、そのストックを今こそ私達は、活かさなければなりません。
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 島外資本の流入、医療系大学設置の動き、高齢化社会に対応するケアー産業のプロジェクト、そして小中学校の統合問題、ソフトとハードが微妙に関連した事業が動き始めています。また、淡路の緑に映える山々が想像以上に危険に瀕している事、そして土取り跡地の広大な空間の利用の可能性が非常に薄い事など、眼下の敵に私達は結構、無頓着でいます。特効薬としての活性化対策が無いならば、この変革の時代に在って、共感という人間古来の原始の方法で、地域造りをしようではありませんか。共感が昇華されて信頼に繋がり、ともすれば忘れ去られようとしている日本の美学である島国根性をもう一度見直そうではありませんか。

 宅建あわじのメンバーがプロフェッショナルとしての矜持を盾に団結する時、淡路の地に新しい風が吹く筈です。冬の厳しい風の後に吹く、優しく暖かい春風を目指して、皆様方の行動を期待しています。本年も宜しくお願いいたします。
                                              平成15年1月
  1. 2007/10/24(水) 10:37:43
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「まがたま」に託す言葉

 「勾玉」の姿は、淡路島に似たものが多い。そして古代の装身具と、神話の島と称せられる「おのころ島」の香りは、奇妙な調和を奏でている。

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 同人誌「まがたま」の由来を私は知らない。淡路県民局に赴任して間もなく、届けられた作品に初めて触れてその存在を知りました。島内に限らず県外にまで広がる人の輪の繋がり。固定されていない多彩な経歴の人々の話題は、それらの作品を通じて新たな地域社会を形成し、継続されて行く中で、歴史の重みさえも創世される。勿論、執筆者の努力に因るところ大きなものがありますが、この地、淡路島という象徴に集約されるところも深いのではないでしょうか。淡路島に関わった人としての自己証明が、「まがたま」という作品群となって華開き、新たな世界に昇華され、そしてまた、淡路に還る。

 歴史の節目という奇遇に恵まれた今、その存在証明を淡路島という一つを契機として益々発展される事を「まがたま」に託します。
                                        まがたま第九号 平成14年3月
  1. 2007/10/24(水) 10:40:16
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故郷淡路に降る雨

 私が、関西大学文学部への進学を選択したのは、一人の先輩の言葉からであった。「関大には千里山文学という活躍している同人誌が在る」当時、確かに関西で芥川賞候補に最も近いと言われていた関大文芸部を千里山文学の同人であるという表現で、気概を持って自己紹介する事が有った。その言葉を贈ってくれた先輩はもう故人であり、そぼ降る雨の志筑の乗合自動車停留所で「何になっても良いが、やくざにだけは成るな」と送ってくれた母も居ない。

 亡き母、門ミユキは、津名保健所で長く保健婦として勤務しており、今でも私をミユキさんの息子として認識する人が多い。秀才の姉と滅私奉公、共励会の会長としても努めた母を持っている事で、私を過大評価する人も居る。敢えて訂正はしないが、気恥ずかしく感じる事が多い。

 私が目指したものは、文学、詩人の世界であったが、同時に武道も学び、所謂文武両道を価値判断の上位に置いて生活してきたが、最近体力の衰えを知るところとなり、武闘派の自負を閉じる事にした。

 公務員として結果的に母が希望した職業につき、定年も近づいて来た年に生涯の拠り所であった矜持の旗を降ろす事の意味するものは何なのか、自問自答する最近の日々である。

 小学生の通信簿の通信欄に先生から「几帳面、潔癖すぎる」と評価された私の性格に気付いた人から、「川の流れは両岸から見なければならない」と教わり、実感として認識する事が出来たのもやっと最近である。
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 相手の立場に立つ難しさや、思いやりの心は、その人間の生き様から生まれる。「人間の価値は、死ぬまでにどれだけの人と出会ったかで決まる」とも言われる。それはまさに、人の歴史、生き様の事に他なら無い。全ての人に好かれようとは思わないが、嫌われる事は極力避けたい。これは、さほど難しくない事である。人からされて嫌いであった事を自分がしない事で大半は達成される。それと、理不尽なものに耐える度量を持つ事だと思う。つまらない相手とおなじ舞台に立つと駄目である。

 志は高くそして謙虚に生きる。不惑の年を遙かに過ぎて、辿り着いた一つの個人的基点であります。

 さて、淡路島にこれからどんな雨が降るのか。敢えて文化圏と言うならば、伝統文芸の三原、市街地連担の洲本、唯我独尊の津名と言った所か。象徴として言うならば、当然、淡路は一つの島であり、外的と対峙する場合は力強い味方である。しかし、島内においては、時には手強い敵にもなり得る。田中長野県知事は、「都会から見て長野は田舎として売らなければならない。自然を壊す公共事業は不要」と言われる。その表現を聞いていて或る事を思い出した。田舎の遺産相続に都会から権利を主張して財産を得、墓の守りは田舎に居る者に押しつけ、休みには帰郷して面倒も見させる。その地に住んで居る者の視点が欠落している。人気という意味不明の仮面を被った道化師と同じ舞台の故郷作りをしてはならない。

 刻、所、違っても故郷に降る雨は母なる大地を育むもの。そして同じ香り。
                                                 平成14年7月
  1. 2007/10/24(水) 10:43:29
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兵庫・神戸のタウン情報誌センター

 本日は、センターをお送りいただき有難うございました。
 故郷に二十七年ぶりに帰郷、雑俳というものを知り、「運不運、秀やん俺と同い年」という素晴らしい作品の感性も知り、今更ながら淡路島の文化の奥深さに感心している次第であります。文化不毛の地とは、逆説の奥床しさではなかったでしょうか。また、貴誌の中で、松平陽子さんの「低くなった敷居」が興味深かったです。

 さて、鳴門と明石の海峡に架橋され本土導水が実現した事により淡路島は物理的に島で無くなった訳ですが、便利になったとは言え、やはり色々な意味で島的ハンディーを背負っています。

 しかし、そのハンディーキャップを逆手にとって、これからの淡路島をどういった形で創造していくか課題は多いです。今後共のご指導等宜しくお願いします。
shizuki river
 また視点を量を質に転換しなければならないと言われている現在、市町合併を喫緊の課題としている淡路島で、どういった枠組で臨まなければならないか、自分の故郷だけに色々と迷いが有ります。

 日本古来の美学が、本当の意味での評価を得にくい現代において、この淡路地域をどういった形で、将来を創造しなければならないのか、限られた時間の中で判断を迫られています。

 行政も量より質への視点の転換を計っていますが、住民の参画は、トータルとして量が要求されています。人任せでは無く、官主導から民自立の流れに沿い、各々が責任をもち実行していく社会の形成こそ、本当の意味での質への転換になる筈だとは思うのですが。
 「川の流れは両岸から見なければならない」という故事に学び、謙虚にそして自然体で故郷を考える事が重要だと思っています。取りあえずのお礼を書面にさせていただきますが、またこちらへも気楽にお立ち寄りください。

 これからも厳しい季節が続きますが、今後とものご活躍をご祈念しています。
                                                 平成13年11月号
  1. 2007/10/24(水) 10:46:13
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神話の故郷の自由な風と矜持

 希薄ではあるが確かに吹いていた自由と矜持の風。それが津名高校のいわばスタイルであった。太平洋戦争敗戦の年に生まれた子供達が入学した年、第二室戸台風が襲来し、淡路町の新町役場の位置問題で全国異例の処置で分町、飛地合併の措置が取られた。高校生活波乱の幕開けではあったが、のんびりとした校風は悠揚として揺るぎが無かった。

 津名中学校が統合されるまで、志筑小学校、志筑中学校、そして津名高校と小中高が隣接してあり、野球、サッカー、陸上、そしてテニスのクラブ活動が混在しているグランドの北側に自宅があった。隣が校長校舎、その隣が武道場で道路を一跨ぎすれば学校という環境の中で、子供の頃から津名高校の歴史を垣間見てきた印象は、潮風の香りと緑。
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 三、四才の頃、裸で、自宅に飼っていた山羊を津名高校のグランドで散歩させている姿を当時、高校生であった姉が見たという程の田園風景が広がっていた学校であった。これと言う確固たる成果を要求される校風では無く、勝手気儘に近い自由と根拠の無い矜持を育むような大らかさに満ちた気風があり、その中で子供達は大きくなった。当時、進学の嵐が吹き始める最初の頃で、進学優先の独りよがりの試行錯誤の結果、卒業必修の追試験を職員室で受けていて、卒業式に出る事が出来なくても、我一人行かんという大らかな風が校舎を静かに流れていた。何者にも屈せず、あれほど気骨であった自由人の少年達も不惑を遙かに過ぎて、この千年期の節目の年に今一度の飛翔を祈念する。諸君、明日に向かって一歩踏み出そう。
                                            平成14年7月
                ――県立津名高校昭和三十六年~三十九年――
  1. 2007/10/24(水) 10:49:14
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淡路島は何処へ ――明石海峡大橋開通に寄せて――

 三十年近く前、四国の親戚の老人を病院に見舞った際、「橋は何日架かるのかな、生きて、歩いて淡路へ行きたいな。」と、窓の外を見ながら言っていたのを、鮮明に覚えている。それが可能となった。

 誰かが、神戸淡路鳴門自動車道、海の見えない直線コースで目覚めたとしたら、自分が淡路島を走行していることを認めるのに時間を要するだろう。

 元々、淡路は、阿波への路、と言う事で、淡路島と言われたという説もあるし、その意味では、自然が島にした景勝を、人為的に元に戻したという事にしかすぎないのかも知れないが、ともかく、世界一の吊橋としての迫力が、明石海峡大橋には有る。

 架橋構想は、明治二十二年香川県議会議員が、大正三年徳島県選出の衆議院議員が発言し、昭和十四年鉄道大臣永田秀次郎の「永田構想」を経て、昭和三十二年の原口神戸市長の「人生、すべからく夢無くしてはかないません」という言葉に繋がり、明石海峡大橋は「夢の架け橋」と呼ばれた。

 文献に残る経過は、このようなものにしか過ぎないが、古来、何年前からかは分からないが、海峡を眼前にして、渡りたいと思った人が、地続きであることを願ったのは言うまでも無いだろう。時折、「何十年来の悲願であった――」というような言葉を聞くが、それは島の人々の感情を無視した無神経な言葉である。

 ともかく、今世紀最大のプロジェクトと言ってはばからない明石海峡大橋のプロフィールを紹介すると、建設は、起工式が昭和六十一年四月、開通が平成十年四月五日なので、およそ十二年程かかっている。総事業費は、約五千億円。神戸西ICから鳴門ICまでの総事業費は一兆三千六百億円。橋長は、三千九百十一m。主塔の高さが、二百九十七・二m。

 吊橋の長さは、中央支間長で比較されるが千九百九十一mで、これが世界一である。

 同じ淡路島に架かっている大鳴門橋と比較すると、実際に走行してみてもよく分かるがそのスケールの違いに驚かされる。

 いずれにしても、淡路島は島でなくなった。

 平成十二年、西暦二〇〇〇年に母校、津名高校は八十周年を迎える。架橋によって通勤等の定時性が確保され、生活条件が目に見えて変化するまさにその節目に、津名高校も節目を迎える訳であるが、校舎の建て替え問題もさることながら、少子化による生徒数の減、価値観の変化等により、島全体の高校のあり方、また、分校の今後も議論される中での対応を考えなければならないので、前途は多難である。

 最近、「大阪ベイエリア新時代」とよく言われるが、かつて、船しか交通手段が無かった時代の視点から、関西国際空港を眼前にし、高速道路が島の中央を突き抜けた今日、淡路がそして津名高校がどう有るべきかを考える視点を持たなければならない。

 第三セクター智頭急行の特急「スーパーはくと」が鳥取へのアクセスに革命をもたらし、周辺にまでプラスの影響を与えた事実を直視し、時間の短縮が想像以上のインパクトをその土地に与える事と、一面的な発想に捕らわれない事を肝に銘じなければならない。

 今のところ、橋桁にならないかと懸念された淡路島は、来島する観光客等が島内に留まっている幸運に出会っている。予想された事ではあるが、バスの利便性は人々の行動範囲を変えつつある。

 そして、そういった事が、開発に繋がりいずれは今以上の公害問題を引き起こすかも知れない。自然の開発と保全の狭間で住人は選択を迫られる。全ての人にとってのプラスは考えられず、全員の賛同を得る事は不可能でどこかで線を引かなければならない。

 その時こそ、その地域の良識と文化が問われる事になる。果たして、淡路は耐え得るだろうか。
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 島が島を放棄した今となっては、新しい社会の構築に努力しなければならない。例えば、下水道の普及率は、県内では淡路島が一番低い。下水道が無くても人間は生きていける。しかし、技術の全てを駆使して建設された大橋から導入する人、物、文化等にその生き様を見せる為には、また、新しい世紀の中で淡路島が新淡路島として蘇生する為には、これからの長い努力の積み重ねが必要になる。一朝一夕には物事は動かない。その礎として、県立津名高校が歴史の中で貢献することが、そして、有るべき姿に導く事が、OBの一人としての責務であろうと確信している。

 大橋の開通迄に、私は橋を二度渡った。一度は、吊橋のキャットウォークを歩いて、二度目は、記念体験ウォークで橋を往復した。キャットウォークには高さの、体験ウォークには長さの障害が有ったが、いずれも自分が淡路島の出身であるという事、また、どちらも自分が生きて体験する事が二度とない事が、最後まで歩きつづける事が出来た原動力であった。

 島に向かって歩きながら、ふと、亡き母の事を想ったのは自分の老いがそうさせたのかも知れないが、橋の持つロマンが感傷的にさせた事もあろう。

 人々それぞれの橋があり、架橋により、新時代が到来した。

 二十世紀は、地球にとって戦争と破壊の時代であったとも言われている。まさに、二十一世紀を間近に控え、架橋新時代の意味をそれぞれが真摯に受け止めなければならない。

 経済効果の正しい分析、淡路島を訪れる客数等の動向、新たな観光スポットの整備等、課題は多い。

 県立津名高校が歴史の一員として、その重みを双肩に担う為に、今この時代、OB現役共に、行動を明確に起こさなければならない。

 橋は架かった。風は西から吹き、歴史は西から変わると言われてきた。頭を上げて一歩踏み出そう。

                                     津名高等学校同窓会阪神支部様
                                                平成10年7月
  1. 2007/10/24(水) 10:59:56
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母校の移転・改築を迎えて

 三十年ぶりに母校を正式訪問した。事もあろうに在学生への八十一周年記念公演「故郷へ帰って」という演題で講堂に立った。当然の事、八百人の生徒のうち最後まで起きていてくれたのは何人か? 少しでも理解してくれたのははたして何人か? 厳しいものが有りました。

 後輩達に伝えたかった事は、川の流れは両岸から見なければならない柔軟な視点と、相手の言っている事を漠然と聞くのではなく、理解しようとする積極性と、懐の深さを持った態度で聞く事。また、ともすれば、他校に押されがちなムードを打破する事。

 そして、行政というものは一過性のものでは無く、表面上は、どう見えようと、継続関連する全体の事業であり、それ故、今の自分に関係無いと思っている事も、将来においては確実に自分達の事として関係してくる事。

 さらには、今、淡路地域にとって最重要課題は、市町合併である事等であったが、私が発信した小さな種が、例え何人しか居無くても、受け取ってくれて、小さな芽でも出る事を願って語りました。
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 私達の時とは違い、今の優秀な生徒達は、後輩の故を持って暫く付き合ってくれたわけですが、しばしの休養になった者も居たみたいで、機嫌良く送ってくれました。

 退屈な話を誰かがするのも義務の一つでしょう。自分に言い聞かせながら講堂を後にしたわけですが、その講堂、校舎も、数年後には無くなる事を思い感傷的になりました。

 校舎等は、第二グラウンドが有る番城ヶ丘で、早ければ平成十七年頃、完成する予定です。海を見おろす校舎へ通う生徒達の為に、環境整備をする事、それが、先輩と言われる同窓会の一つの大きな責務ではないでしょうか。

 同窓会館の建設、生徒達が通いやすい通学道路の新設、そして桜の木を中心とした、環境に配慮した植樹等、一つ一つの小さな努力の積み重ねにより達成したいものです。

 同窓の有志の行動力に期待するものですが、故人の力は弱いものです。団結した組織力、それが時代の節目にあって、津名高同窓会に一番求められているのではないでしょうか。

 形在るものは、何時かは消えます。しかし形の無いもの、伝統というようなものに代表される姿無き存在、それ等は永遠です。そうしたものがより完成に近づいた時、風土という、千年の歴史を必要とする文化が、その地域を代表するものを形成するはずです。

 新しい校舎と共に始まる新しい津名高を、力を合わせて創造して行きたいものです。

                                             津名高同窓会会報
                                               平成14年8月
  1. 2007/10/24(水) 11:05:00
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