故郷の雨 ――淡路市長―― 門 康彦
愛と正義の政治家、『砂楼の伝説』の著者でもある詩人 門康彦淡路市長の『故郷の雨』ネット版を、順次紹介してゆきます。
栄光と蹉跌 昭和43年4月~昭和46年3月勤務 事務室・門 康彦

私の母校は、当時、自宅のすぐ前に在った津名高校でした。
そこを通り過ぎて、国道28号線を南下、洲本を通り越し中山峠を越えると三原平野が広がっていました。
さらに市の交差点を左折して三原高校まで、当時で小一時間の行程でした。
緑に囲まれ、落ち着いた木造校舎、時間のゆっくり流れる牧歌的学校でした。
日本は、敗戦後、20数年を経て、小笠原諸島が日本に復帰し東京都に帰属、まさに経済復興の途上、霞ヶ関の超高層ビルが誕生、過渡期の混乱の中で東大紛争、価値観が多様化する傾向を反映し、参議院議員に石原慎太郎、青島幸男、横山ノック等が当選、そして明として川端康成のノーベル賞授賞、暗として府中の3億円強奪事件が起きた。
その昭和43年、関西大学を卒業し、三原高校に赴任して三年間を過ごしました。
当時、洲本高校に追いつけ追い越せを合い言葉に、文武両道に励み、大学の進学率も運動の成績も追い越した栄光の真っ盛りに有りました。
90年の歴史の中での僅か三年間でしたが、社会人の第一歩を記す事になった記憶は、40年経た今も鮮明です。
まず語らなければならない人が居ます。「胴乱先生」と親しまれた槌賀安兵先生のことです。人物淡路史の中でも語られる人物ですから、誰かが詳しく述べられると思いますが、私との出会いは、先生の最晩年でした。昭和46年(1971)に他界されたわけですから、私が昭和43年から45年、まさに社会生活一年生と、教育界の重鎮であった方との出会いは思い出深いものが有ります。
ある時、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われて、先生は事務室を覗かれました。何処のお爺さんかなと私は思いました。
まさかその人が、諭鶴羽山でコケ35種を発見し、「ツチガマレゴケ」「ツチガシッポコゴケ」等の冠された新種のコケを発見した生物学者だとは思いもしませんでした。
当時、優れた教育者であった先生に対して、教え子達が研究室一棟と研究費を贈り、死の直前まで教壇に立っておられました。
まさに、故郷を愛し、故郷を愛した人を大事にした気風が溢れている環境が有りました。そして、槌賀生物教室の正面に掲げられていたモットー。
1勉めて自ら研究せよ。
2精密に観察実験せよ。
3正確に思考せよ。
これらは、先生の独創で有りましたが、当時の三原高校にも通ずる校風でも有りました。
そして、良くも悪しくも、その頃までは、先生の洲本中学校の学友の大内兵衛氏の書が研究室に飾られていたように、洲本中心の学閥人脈が淡路島全島の基盤でもありました。

昭和43年、月世界旅行が始まった頃から、淡路島は、未来を決める一つのターニングポイントの時期に有りました。
一つは、「明石、鳴門架橋の促進運動」が加速し始めた事です。それから17年後の昭和60年、鳴門海峡架橋、30年後の平成10年、明石海峡架橋により、淡路島は物理的に島で無くなりました。
もう一つは、関西新国際空港の調査が始まり、淡路島北部の丘陵地が候補地として脚光を浴び、当時流行りの反対運動で計画は消滅、新幹線計画も夢と消え、その代わり淡路島は、今の環境を保持しました。公共事業導入による活性化より、静謐で景観を変えない地域作りを島民は、結果として選択しました。
淡路島三市時代の今、北部の初代、淡路市長としてその頃を振り返れば、今の状況はその頃からの積み重ねと努力により創出されたものと言えます。
当時の日記に、「庭を掃除した。この田舎の朝は、少し空気が冷たく、海のほうからポンポン蒸気の音が絶え間なく聞こえ、小鳥の囀りが聞こえる。すこぶる平和な所だ。」とありました。
翌年の昭和44年も、文武両道が順調に進行していました。第一学年の遠足は、四国の栗林屋島行きであり、私も、付き添いという形で同行しています。
進学もさることながら、体育も坂本先生が総括、桜井先生がバスケット、井実先生が陸上、松井先生が柔道、寺岡先生が剣道など厳しい指導で、成績が向上していました。
まさに、地元出身の教職員を多数擁し、学校の事、地域の事を高めるための努力が実っていました。進学、体育の成績、そして就職とバランスの取れた学校運営は、評価の高いものでした。
昭和45年、コリン、ウィルソンの「アウトサイダー」が話題になり、作家、三島由紀夫が盾の会のメンバーと市谷自衛隊基地に乱入、自刃した事件が起こった年、それまで三原高校の栄光の躍進を支えてきた反動が表面化しました。
蹉跌の原因が何であったのか、側面から見ていた私には、それまで規則正しく動いていた組織が、音を立てずに崩れていくのが鮮明に見えました。
11月の日記に一行、「兵教委、あの人間の作り上げた抽象の物体が、山下教諭を処分した」とあります。
教職員の組合活動と、生徒会の活動は、一面過激な行動言動を見せていました。
そんな中で、山下先生が一般的な授業をしなかった事は、別の意味で、組合活動から遊離したものとなり、他の職員の忠告も聞かないまま行動し、処分の対象となったわけです。
一度だけ、山下先生と話をした事が有ります。
「門さんは、教育というものをどう考えられますか?」それに対して、「無限の可能性を秘めた若者たちの前で、教壇に立ち、私は語る事が出来ない」と意味不明の言葉を返した事が有ります。何故この事を覚えているかと言うと、懲戒免職になった山下先生から、長文の便りをもらいその中で、印象に残った言葉として書かれていたからです。
そして、翌年、昭和46年1月、行方不明の生徒会長の縊死死体が、山林から発見されました。
事務室で呆然として座られていた保護者の方の目を今でも覚えています。
辛い悲しい時間でした。
それから二ヶ月後、私は、三原高校から淡路教育事務所へ転勤しました。

昭和43年からの三年間は、個人的には社会人として出発した印象に残る期間であり、県立三原高校が卒業生も協力して一つの栄光を摑み、そして蹉跌も味わった激動の年代でした。
また、淡路島の歴史のターニングポイントとして、その時歴史が動いた時でもありました。
平成の大合併により、淡路島三市時代を迎えた今、兵庫県立三原高等学校は創立90周年を迎え、そして淡路三原高等学校として再出発をしようとしています。
40年という時間は、明石、鳴門両橋の架橋を生み、島は、物理的に島でなくなり、幾多の人材を輩出してきた学校もその形態を変えつつあります。
いずれ淡路島は、淡路島市としてまとまり、その存在を内外に問う時が必ず来ます。
栄光のために流した涙を忘れる事なく、蹉跌に流した涙を乗り越えて、さらに三原高校が躍進する事を祈念して、創立90周年のお祝いの言葉といたします。
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神戸の壁の説明責任

神戸の壁は、昭和初期、神戸市長田の若松市場の延焼防火壁として建てられ、神戸大空襲と阪神淡路大震災の二つの大火に耐えました。
人間は、人として守らなければならないものが有ります。
旧津名町時代、悲しみを風化させてはならないと、2000年1月、しづかホールの横に、タイムカプセルと共に、神戸の壁を誘致しました。
10年以上経過する時間の中で、津名町の壁は淡路市の壁となり、西海岸の震災記念公園、東海岸の神戸の壁と、二つの震災記念メモリアルとして在りました。
しかし、累計で700万人を超える来場者のある、国の天然記念物に指定された野島断層を保存する震災記念公園と比較すると、神戸の壁は、これまでその存在を正しく伝えてきたかどうか問われ続けてきました。
元々、旧津名町の住民からは、その違和感について議論が有り、合併後のクリスマスに、神戸ルミナリエの鎮魂と平和のメッセージの光を受け継ぎ、神戸の壁をライトアップしてコンサートを開催し、震源地の淡路市の心を光に込めて、世界に発信しました。
本来ならばもっと早くしておかなければならなかった事ですが、三月に完成した震災記念公園のリニューアルを整合させ、環境が整った20年6月に移転の決定をすることにしました。
歴史の偶然は、二百万人以上が被災したと言われるミャンマーのサイクロン、そして四川省の大地震と呼応し改めて警鐘の鐘を鳴らし、震災記念公園の魅力を高め、修学旅行生など学生の修学の参考とします。
また、経費は、このような事にしか使えない、震災記念公園基金を充当、有効利用し、工事に当たっては市内業者など地域経済の活性化にも資する事とします。
これまでの経緯を尊重し、旧津名町長柏木氏などに説明了解を得ました。また、神戸の壁でこれまでイベントを続けてこられた神戸市の三原さん達からは、感謝のお手紙をいただいています。
移転予定先の地権者にも同意を得ています。
先日、株式会社北淡の地震基金から、ミャンマー、四川省の災害に対して義援金を送りました。僅かなお金ではありましたが、心を届けています。
そして、ハード整備として、人工の神戸の壁を、天然記念物の断層の見学通路の一角に設置し、生きた教材として、防災教育の拠点として、記録と記憶に留め、これからも、阪神淡路大震災の悲しみを風化させることなく、後世に語り告ぎ、この淡路市から警鐘を鳴らし続けるモニュメントとして再生することが、生き残った者の責務として、ここに提案をいたします。
プロフィール
Author:サイバー門友会
――心は少年――
を信条とする かど康彦淡路市長を私たちはネットを通じて応援します。
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