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故郷の雨 ――淡路市長―― 門 康彦

愛と正義の政治家、『砂楼の伝説』の著者でもある詩人 門康彦淡路市長の『故郷の雨』ネット版を、順次紹介してゆきます。

地方政治。

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首長(しゅちょう)とは、行政機関の独任制の長官のことであり、県知事や市長等のことを言う。制度として一人であるが故の課題も多い。
選挙で選ばれた執行機関の首長(市長)と議事機関の議会とで二元代表制を構成し、これまで地方自治が運営されてきた。
二元代表制の究極の目的は、「地方議会は、自治体の最終意思決定の場、議事機関であり、執行機関へのチェック機能や、立法(条例)機能などを受け持ち、首長(市長)は、執行機関のトップとして予算の編成権や執行権を受け持つ。双方が緊張関係を保ち、互いに抑制しあうことで、民意を反映した政治、行政を実現させる」事です。
これまで、多くの二元代表制は、「馴れ合い」を問われてきました。それが常態化した背景は、自治とは形式だけで、国主導の行政運営が定着していたからです。「首長と職員、議会の三位一体による住民不在の自治」であったと指摘されています。
結果として、自治体が独自性を発揮せず、国のお仕着せを受け入れ、首長と議会の間に意見の食い違いや対立は生じなく、政策の中身について議論することがあり得なかったからです。緊張や対立ではなく配分調整等がポイントとなり、融和や癒着が浸透し、二元代表制の歪みが拡大した。
しかし、最近の急激な財政悪化の進行は、自治体に政策とお金を配分してきた国力を低下させ、国頼みが通用しなくなり、自治体が自らの力で課題の解決に当たらねばならない時代を到来させた。
地域主権改革が進む中、首長と議会、議会と住民の関係が問い直されています。
最近、マスコミが面白可笑しく取り上げる首長と議会との対立は、本来はあり得ません。決定権は議会に有るからです。
但し、議会は議事機関であり、執行機関である行政との立場を明確にしておかなければ、二元代表制を根底から揺らぎかねない。
議会とは、首長に是々非々で望むべきもので、本来、議会は議論する場としてなければならない。

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  1. 2011/02/01(火) 10:49:40
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淡路市の事業仕分け作業について。

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国がショー的にしているものとは、本質的に違います。
マスコミが、面白可笑しく取り上げている国の仕分けは、従来から、行政内部で実行されてきたもので、その手法が、オープンでなかったところから課題が生じていただけです。
確かに、これはと思われるものも存在していましたが、それは明らかに各部署の組織防衛の為のもので、いずれは破綻するものでした。
淡路市のような、市街地を構成せず、人口も散在する5万人以下の田舎の市は、まさに現場サービス業務が、大半を占めます。
おのずから、仕分けの意味も違ってきます。
本来機能としての行政の効率化を目指すものとして、効率性で要不要を判断し、政策決定のプロセスにも応用することになります。
結果として、仕分けの信頼性を高めるには、判定理由の透明化、そして説得力などが明確でなければなりません。
表面的な経費の削減よりも、市民への情報の提供、啓発、所謂、アピールがまず優位に立ち、何よりも、職員の研修、意識改革による資質の向上が最大目標となります。
究極の研修の場と言われる所以は、平成22年淡路市事業仕分けの仕分け人のメンバーの中に、前我孫子市長で、8月に消費者庁長官に就任された福嶋浩彦さんが居られた事からも、従来の市単独の研修ではあり得なかった事です。
構想日本に委託することにより、内閣府行政刷新会議のメンバーなど多方面のスペッシャリストと地元市民の共同作業が、実を結ぶものとなりました。
事業仕分けの結果は、一つの参考意見としますが、予算の査定は本質的に違ったものとなります。
事業仕分けは点であり、予算査定は面的な意味を持っています。木を見て森を見ないものであってはならず、歴史、現実、未来をバランスよく見極め、最終目標は、市益の増幅です。
明日に架ける橋は、渡るのが目的ではなく、渡った向こうに有る世界的観光立島・淡路市に繋げるためのものです。

  1. 2011/02/08(火) 15:26:56
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