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故郷の雨 ――淡路市長―― 門 康彦

愛と正義の政治家、『砂楼の伝説』の著者でもある詩人 門康彦淡路市長の『故郷の雨』ネット版を、順次紹介してゆきます。

西川光二郎小伝。

明治20年当時、洲本は津名郡内に在り、郡内一校の津名高等小学校は洲本に在った。
光二郎の自宅は、淡路市(旧津名町)佐野、佐野港近くの中村恵比寿神社近くに在り、学校まで15キロの距離、下宿して登校したのが、11歳の時でした。
卒業以来、殆どを島外で過ごした光二郎に、土着の淡路島人としての意識が何処まで有ったのかどうか分からないが、「初めての社会主義者からの転向者」と評価される人間性は、興味深い。「社会主義の考えの通り社会の制度さえ改革すれば、世の中に貧乏人が居なくなる」と信じる事から「自己改革すなわち教養という事に、一切お構いなしの連中が、社会の改革ばかり叫んでいるのは果たして良いのか悪いのか判らない」と疑問を生じるようになるバランス感覚は、素晴らしい。

市内在住の方の意見を紹介します。
「戦後の動乱期、共産主義革命が叫ばれ、東大を初め旧帝大では教師の多くがマルキストだった。その流れが、日本の思想界や教育界に与えた影響は大きく、今、その検証が始まっている。それを、あの時代にいち早く感じ、社会主義を離脱宣言と共に離れた光二郎は正しかった。功名心のため社会主義に近づいた幸徳秋水とは違う。」

1901(明治34)年の春、幸徳秋水など6名が、わが国初の社会主義政党、社会民主党を創設した。その6番目の男は、4回の入獄を繰り返した後、社会主義運動からの離脱宣言を発表、社会主義者からは、裏切り者のレッテルを張られ、特高からは、特別要視察人として付け狙われる生活をしながら、道徳、論語、大学・中庸などを説いて、全国を7000回も巡講したと言われれている。

転機の切っ掛けの一つに母の死が有ると言われているが、「兄弟の中の不遇なものの名を呼んで事切れた」母の最期を光二郎がどの様に感じたのか。島を出て本土に渡る時、特別の思いが有った時代のことで、想像絶するものが有ったに違いない。

光二郎の生き方とは、思想より人を大切にした事ではなかったか。

社会主義から、黙って逃げ出すか、ほとぼりが冷めるまでなし崩しにするか、方法は有ったものを、官に強いられる事無く公刊し、自ら退路を断った潔さは、14歳までの島内在住時に培われたものなのか?

大正15年、光二郎50歳の時、「自働道和」巻頭言の国民反省の時にで、「今は実に、労働を辛抱を嫌い、自己を責めずして、他をのみ責めたがる時代であります。而して又、斯かる不心得者に媚びる言論のみ流行する時代であります。自国を呪うものは、新思想家として迎えられ、国を愛すべしと説く者は、頑迷の輩として笑はるる時代であります。こうした国民に対し、一番大切な忠告は、言うまでもなく「反省せよ」の一言であります」と述べています。

時代は変わっても人は変わらない。そのまま、現在に当てはまる言葉でしょう。

昭和15年、64歳にて逝去。墓石は多磨墓地に在り、佐野には無い。

有志から淡路市にて顕彰できないかという依頼が有ります。皆さんどうでしょうか?

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  1. 2008/07/05(土) 20:37:36
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