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故郷の雨 ――淡路市長―― 門 康彦

愛と正義の政治家、『砂楼の伝説』の著者でもある詩人 門康彦淡路市長の『故郷の雨』ネット版を、順次紹介してゆきます。

三島由紀夫への試論 1970.S45年11月 門 康彦記

その時、三島は生きていた。行動していた。詩人として存在していた。
彼が言うように、「切腹という行為により、昭和45年11月25日が単なる一日から昇華して記念すべき日になる」とするならば、独りよがりな理屈だとしても意味は有る。
そうそれだけで十分で、それ以外の事々は付属するものにしか過ぎない。
最初、そのことを聞いた瞬間、確かに緊張感は有った。恐怖も驚愕も無く、力強く迫る「やりやがった」という心地よい緊張感だけが有った。
そして、スクリーンの背後を伺っている違和感が去っていくと、身の中の高まりが徐々にゆっくりと広がりそして消えて、冷静さが戻ってきた。
奇妙な、三島の不在感だけが残った。
生き永らえても大した事が出来ないとすれば、落暉の如く消えゆくべきなのか?
一つのダンディズムの典型として、三島の行為が評価されるとしたら、あの舞台はあまりにも不釣り合いでは無かったのか?
守ろうとした自衛隊員から怒号が飛んだと伝えられたが、真実とすればそれは喜劇の一幕に例えられてしまう。
それが故に、緊張感を伴ったこの出来事が、現実感を伴って迫ってこない。楯の会の知り合いには申し訳ないが、悲しい一人芝居になってしまったのではないのか。
もしも、三島由紀夫という一人の天才が、自分の文学の世界を完結させるために付属するエンターテインメントとして利用したのであれば、森田必勝は浮かばれない。
同世代を生きる者として、森田必勝の不存在を胸に刻まなければならない。
何故ならば、百年後も三島由紀夫の名前が残る可能性は高いが、まず森田必勝の名前は消えているはずだからである。

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  1. 2016/03/20(日) 09:26:39
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